「頑張った結果、今ここにいる」のか?

 すべて簡単だったわけではないが、順風満帆に進んできたと感じる。

 小学生のとき、親に言われることなく勉強していた。カラーテストはいつも満点だった。サッカー、ピアノ、水泳、書道を習っていた。公文にも通っていた。通知表はほぼすべての項目が最も良い評価だった。

 中学校に入学してから、勉強がわからない時期があった。しかし、塾の自習室に毎日通った。1日平均5時間は勉強した。高校入試のための勉強をした記憶はない。毎日勉強していたから、入試は受かって当たり前だと思った。

 高校生になり、2年次に特進クラスに入った。2年生になってから、毎日予備校の自習室で勉強した。

 大学でも、日常的に大学図書館に通った。毎日勉強しないと授業についていけない、毎日勉強していてもついていけない。そんな環境で学びつづけた。

 教員採用試験は一発で合格した。教科の学力で、他の受験者に負けるつもりはなかった。

 教員になり、2年目から念願の担任を務めた。最初の年はうまくいかなかったが、自分なりに勉強を積み重ねた。本を読み、他者の実践を真似した。自分が納得いくまでどれだけでも残業した。年間100冊を目標にし、達成していた。

 そして、順調に昇任試験に合格していき、今に至る。

 小さい頃から、当たり前のように勉強に取り組んでいた。大学生の時も、社会人になってからも、自己研鑽を欠かしたことはない。正直、普通のひとの数倍は勉強していると思う。だから、「今の自分がある」のは努力の結果で当然だと思って“いた“。

○その結果が、生まれの差だとしたら

 「教育格差」(松岡亮二著)を読み、頭を思い切り殴られたような衝撃を受けた。私たちにはそれぞれ生まれの差があり、それが「今の私たち」に大きく影響を与えているというのだ。私が自分の意思で猛勉強したことも、高校・大学と進路を決定したことも、生まれの影響を受けている。

 自分の意思で勉強したと考えていたが、「勉強することが大事だという両親の価値観」、「家の手伝い等をしないで、勉強を優先させて良い家庭環境」があった。「両親が多忙で、家の手伝いを毎日しなければいけない環境」だったら、勉強する習慣は身に付かなかったかもしれない。

 また、高校・大学に関する進路選択も、「大学に進学するのが当たり前という高校の雰囲気」、「大学に進学した方が良いという両親の価値観」、「私立大学に進学し、予備校で浪人できる資産」があった。「私立大学に行かせる余裕」がなければ、現役で合格するために志望校のレベルを下げただろう。

 金銭的な資本に生まれの差が存在するだけならまだしも、『意欲』にまで生まれの差が生じていると言われたらお手上げだ。私の積み重ねた努力は、生まれの差による『意欲』の差の結果なのかもしれない。

 こう見ていくと、今までの自分がどれだけ恵まれているかが分かる。

○「自己責任」が蔓延る社会で

 メリトクラシーという言葉がある。「生まれや身分によって地位が決定されるのではなく、個人の業績(メリット)によって地位が決定される」という考え方である。これを聞いたとき、なんて当たり前のことを言っているのだろうと思った。当たり前すぎて、意識したことすらないかもしれない。しかし、このメリトクラシーという考え方が、何を生み出したのかを考えなければいけない。誰もが自由で公平な世界であると喧伝し、努力の結果が個人の業績であるという社会が誕生したのだ。それはつまり、逆にいうと…。「神の亡霊」(小坂井敏晶)から引用する。「自由に選択した人生だから自己責任が問われるのではない。逆だ。格差を正当化する必要があるから、人間は自由だと社会が宣言する。努力しない者の不幸は自業自得だと宣告する。」自己責任論が、私たちの当たり前となった。

 メリトクラシーは、生まれや身分によって地位が決定されない公平な世界を表現したが、ここには、「生まれの差は結果に寄与しない」という前提が働くことになる。「努力をどれだけしたかなのだから、生まれの差は関係ないでしょ?」、そう言いたげだ。生まれの差は明確に業績(メリット)に影響を与えることがわかった。それなのに、結果に対して自己責任論を押し付けることは正しいのだろうか。

○自由が増えると、格差が拡大する

 格差を減らすために、私たちは何ができるのだろうか。逆に格差を拡大するために何をすればいいのかを考えることがヒントになるかもしれない。

 教員にとって考えやすい切り口を提示する。「ゆとり教育」だ。これが成功だったか失敗だったかは総合的に見て判断することが難しいが、格差の拡大に貢献したことは間違いない。土曜日が完全に休みになったことで、それぞれの家庭でどのような変化があっただろうか。「土曜日は毎週塾に行くことになった」、「土曜日は家族で出かけるようになった」、「土曜日は習い事をすることになった」、経済的に余裕のある家庭はこのような動きだろうか。では、余裕がない家庭では…?「親は仕事でいないので子どもだけで過ごした」、「午前中はずっと寝ていた」、「YouTubeを観て過ごしていた」、なんてことがあるかもしれない。自由があると、資本のある家庭はその資本を教育や養育に費やす。富める子どもが、更に富んでいく。極端な話、学校が週7日になれば、自由が減り、格差が出にくくなる。

 また、習熟度別授業もそのような面があると考えられる。学力上位層は、下位層を待つ必要がなくなり、どんどん学習に取り組み、学力を蓄えていく。下位層もきめ細やかな指導が期待できるが、上位層の伸びにはついていけない。

 格差を減らすためには、自由を減らすのが手っ取り早いが、この“自由“な世界で、手中に収めた自由を今さら手放すことは望まれないだろう。富めるものは、自分たちの核心的利益を理解している。

(私は、授業は午前中の4時間にして、午後は家庭に帰すべきだと考えている。しかしこれは格差を拡大する策となってしまうだろう)

○生まれの差の恩恵を受けたであろう私

 ノブレス・オブリージュという言葉がある。高い社会的地位には義務が伴うことを意味する言葉である。能力のあるものは、その力を社会のために使わなければいけない。富めるものは、その富を分配しなければいけない。そういった、明文化されていない社会的な規範である。

 偉そうだが、私はこの言葉を胸に刻み生きてきた。今回生まれの差について学んだいま、さらにその思いを強くしている。私がここにいるのは、努力もあるが、それは生まれの差の恩恵に与ったのだ。

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